昭和40年08月30日 朝の御理解
椛目で暫くの信心の、稽古をさせて貰い信心の稽古した、ほどしの人ならば、神様のお働きの間違いなさと言う事は、皆さんは段々分かってみえたんだとこう思います。道理も分かってみえたと思います。私共は本当のおかげを頂くためには、こう言う様な信心にならなければいけないと言う事も、またここをここを改まらなければおかげを受けられないと言う事も分かってみえたと思う。
ですからそれが段々分かって来たというだけではありません。神様の働きというものが分かって来たと、こういう信心をしなければおかげは受けられない、ここをこう改まらなければ本当のおかげを受けられる筈はないと言う事が分かって参りました、のですからここで一つ本当の、まあ踏ん切りをつけさせてもろうて、一段とおかげを頂いていかなければならない。これは椛目全体の事においても、そう言う事が言えます。
例えて言うなら人力車に、物を乗せて引っ張っていると、自分の力では持て持って行けん物でも。車に乗せればある程度のものは引っ張って持って行けと、けれどももう人力だけでは出来ない、愈々坂になった。愈々人間の力という、そのではここを越す事が出来ないと、愈々その無限力に縋らなければならないと、いうなら神様の特別のお働き、いうなら神様の御発動を愈々願わなければならないという。
段階に椛目の場合はあるとこう思う。ね。愈々特別の神様のお働きを頂かなければ、でき出来ないと言う所の限界まで来ておる。そこでお互いの信心を、いわゆる総決起させてもらうと、先日も総代さん方に、まあお願いおをしたんですけれども、総代さん方あなた方自身が本気に信心になって下さいと、本気で踏ん切りつける所はつけて下さいと、本気でこうさせて頂かなければならんと思うておる事を、言うておるだけじゃいけません、思うておるだけじゃいけません。
知っておるだけじゃいけません、いやお参りしておるだけではいけません。そしてあなた方の例えば十人なら十人の総代さん方がどれだけのこの、事が出来るかそれはいわばわずかな事でしょうと。ね。けれどもその総決起される、そこに力が入れられるという、その力がです、私は神様を動かす事になる、いわば神様の御発動を受ける事が出来る。てんでんバラバラではいけません。
どうでもそういう所に力をあわせて、本気で一つ思うておる人は思うておる事を実現しなさい、ね、クッって言うておる人だけは、実際体もそこまで動かにゃだめです。ね、知っておりますだけじゃいけません、参っておるだけじゃいけませんと、とまあいう意味の事をです、ま申しましたような、わけで御座いますけれども。私今朝からそういう人力と、ね、人間の力とそれは例えば申しますように、仕事で例えば持つと言う事は、中々わすもう限界がありますけれども、ね。
てじゃ力がてじゃ力と人力なら人力車に例えば、その乗せれば手で持てないだけの、以上のものが持てれると言う所までのおかげは頂いておるのであるから、もう愈々神力にえっと、特別の神力というか、ね、神力というか特別な神様の御発動です。はあ神様のお働きにはもう愈々恐れ入ってしまうなというようなです、お働きを頂かなければならない段階にあるのだと。
神様の発動をじ願わなければならんと、今日私御神眼にですね、人力にいっぱいの、何か人やら車やら乗せてですね、引っ張った所が、もうこんな坂になっておった。もうこげんなっておりますもんですからね、前から綱をつけて引く事も出来ないんです。こげんなっとる車ですから、坂が下から押す事もできないんです。なんかこう力の入れどころのないごたる風です。周りのもんも引いた所で、こう引かれないと言った様な状態なんです。ですからここに神の発動を願う以外にはないと言う事を勿論。
神様のご発動をどうでも願うというだけでは、神様の御発動にはならないと思うんですね。そしたらあのこうじょうご型の、なにかこんなものを頂くんですね。こっから沢山の物がこう入ってくる、ここにこうじょうごの口の所から入ってきて、ここの絞った所で力がこう、漠然としとっては力これはいりませんけれども、この力全部ここに集めますと、その大きな力になりますよね。じょうご型の所ば頂きます。
ならどう言う様なものをそのちどう言う様なお互いが力をここにほんなら集めるかと言う事になるです。ね、そりゃ皆さんの信心で様々にまあ練って頂かなければならんと思うですけれども。私はここん所をですねどうでもその、言うておる事、思うておる事知っておる事を実際にもう、ね、こうしなければならないこの様な信心をしなければおかげが受けられないと、参っただけじゃいかん言うただけじゃいかん、思うておりますというだけではいけんと、それをここに愈々現して行くと言う事。
神様の御心を知らずしてと言う事はどう言う様な事を、あのおすがりするかと、いつも私はその、例話にあのお話をするんですが。あの大連の教会に松山という大変お徳を受けられた先生がおられた。親先生の所の総代さんで、立派な方で信心も良う出来ると、家族をあげて信心される。所がその商売が何をしても思うようにいかん。所謂人の見た目ではです、所謂一生懸命、それこそ中野さんの表現じゃないけども、誰が見てもどこから見ても一生懸命のように見えるんだけれどもおかげ頂かれん。
松山先生もお取次ぎなさってから不思議で感じられると、あれだけの一家中で勢を揃えて信心をしているのに、どうしておかげを受けられんだろうか。である御本部参拝のみぎりに、金光様三代金光様にそのことをお願いなさると同時にお会いされた。私共の総代の中にこういう氏子がおりますが、してもおかげが受けられません。どうぞおかげが受けられますように、どの様な信心をさせて頂いたらおかげが受けられましょうかと言うてお伺いされたときに、金光様が仰ったと。
こうすればおかげになると言う事が分かっておりながら、こうせんからおかげになりませんと仰ったそうです。こうすればおかげになると分かっておる、家族中のものがその時熱心に信心しおておるのであるから。お話も頂いておる、ね、こうすればおかげになると分かっておりながら、こうせんからおかげになりませんと仰った。鶴の一声ですね。帰ってその事を伝えられた。先生はそう言う事じゃありますまい、分かっておるんですから。そう言う事じゃありますまい。
それからいわばそう決起されたんです家族中のものが。ね、所謂皆んながそう踏ん切りつけられたんです。それこそ瞬く間に改善の一路の、商売になられたというお話が御座います。私は今こそこれは椛目全体の上におきましてもです、人力から神力と人力程度のおかげは受けてきた確かに受けて来た、ね。例えて言うならば自分では持てないものでもです、人力引っ張っていきゃあそれだけ、自分では百斤しか持てんでもこれなら五百斤が乗せる、乗せられるようなおかげだけは受けてきたけれども。
もう百斤五百斤では間に合わないという時、いわゆる千切り万切りの、必要なおかげが頂かなければならない時にあたった時で御座いますから。神様の特別の御発動を頂かなければなりません。しかもそういうおかげはです、ね、ここに集中してから貰わなければならない。こりゃ椛目全体の事を申しましたが、皆さんの一軒一軒の家においいうても同じ事。まず己の一軒一軒の上にですそれが、そのおかげがなされなければならないと。それの一軒一軒の上にそういうおかげを頂く。
こりゃもう金の事を気にしましてもいいです。ね。例えばならここに高芝さんなら、高芝さんという、方が総代さんとしておられる。一家中成程勢を揃えて信心しておられる。成程その日その日の、おかげを受けておられるようであってもです、何とはなしに。いわばこれが神様のくだっさて、おる本当のおかげとは思われないと、言う様な状態でもしあるとするならばです。家族中の中でそれを決起してです。
こりゃあ参っただけじゃあいかんばい、知とるだけじゃいかんよ、来るだけじゃいかんよ、これは愈々おれたち夫婦、子供達に至るまでがです、改まる所本気で改まらしてもろうて、お縋りする事に一生懸命にならなければいけんぞと、いけんよとこう話し合いが出来て、ね、銘々の心がそこに一つになって、本気で改まらさせて頂くときに。例えば田主丸の高柴商店なら高柴商店という商店に今言う人力的なおかげが、ね、神様の御発動を頂くことになり、もう思いもかけない働きがある。
各々おかげが高芝商店の上に現れて来る様になるでしょう。田中商店の上にも堤商店の上にも、堤商店の上にも、みんなの上にそういう働きができてくる、その働きがです、丁度じょうごの口のように、ここに集中される。そういう私はおかげを頂かなければならない、これは椛目全体のこ御造営なら御造営と言う事についてではです、そうならなければおかげが受けられないと言う所に、段階に来ておる。今迄の様な事ではこれは成就しないと言う所まで段階に来ておる。
いうならまず銘々がおかげを頂かなければならないと。昨日、一昨日でしたかね、御理解を頂いて、秋山さんがお届けしておられますように、ね、どうでも商売繁盛なら商売繁盛と言う事でも、こういう商売繁盛を願わにゃおらん、大繁盛を願わなければならんけれどもその大繁盛がです、御造営に繋がっておるもんじゃなかったならば値打ちはないと言う様な御理解を頂いて、本当にその事もう自分の家に商売繁盛を願う筋道が分かってきた。家族中の者にその事を話させて頂き。
家族中の者が本当にお母さんそうでしたなあと、主人までがほんにお前がそういうや、そうたいと言う様に変わってきた。ね、そこに話し合いが出来た。そこにそれならばですね、秋山商店の上に大繁盛を願わせて頂く為にです、今までの事の様な事ではいけんからかぞ秋山しの家中の者がです。そういう改まりを改まらさせて頂いて、この事を育って行こうやって行こうと言う事になるときに、秋山商店の上に一つのひれいが達成、始まるです。そうなのです私は御造営に集中されるというおかげを頂かせてもろうて。
所謂神力無限、所謂神様の御発動が得られる所のおかげになってくると、愈々神様がです、御発動を頂かなければ出来んのです。信心しておかげのあるは不思議とは言うまじきものぞと仰るけど、もう不思議とは言うちゃあならんと仰るけれども、不思議と言わなおられんなあと言う様なです、おかげが立ち始めなければならない時期にあると言う事です。神様もそれを待ち応えて御座るという時期なんです。
私共それを実行しなければ、ね、もう言うとるだけじゃいかんのです。思うとるだけじゃいかんのです。ね、それこそ松山先生の所の、その総代さんの様にです、こうすりゃおかげになると言う事が分かっておりながら、こうせんからおかげにならんと仰る、その所がです私共が本気で分からせて、分かったのですから本気でその改まりが改まらさせて貰うてです。そして総力をあげてその事に集中した所の、お縋りというか、願いというものがなされなければいけないという風に思います。
今日私がお知らせを頂きます、ね、人力からいわば神力例えばこれがです、そういう坂であっても、これが大きなトラックならトラックであると致しましょうか、勿論そういう積載それに積み、積む所の荷物も大変な事で御座いましょうけれども、それが金だらけじゃありません。発動機発動何て言うですか、その自動車で言わば所謂その、モーターがです古いダーってその動き出しました。そしたら今まで登れなかった坂が一気に登れるような、言う様な言わば働きに成って来ると私はいわば信じます。
皆さんもご承知のようにです、ね、段々椛目に縋るごとでも信心の稽古をなさったという程しの方ならばです、神様の働きも分かった。ね、こうすりゃおかげになるんだ、こうならなければ信心はいけないんだと言う事が分かった。だから分かっただけじゃいけん、分かった事を実際の上にです、それを現して行く所の時期というものが、そういう意味で、まず銘々が上に神様の御発動を頂く為に、家族中が総決起、改まって縋って行く所のおかげ、もう手元足元の所からです、一つ改まってお育てしていこうじゃないですか。
おかげを頂かなければいけません。